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裏切られること、信じること

  • 執筆者の写真: 広 天田
    広 天田
  • 7月10日
  • 読了時間: 2分

「信じてるよ」と言うことはあっても、「信じるとは何か?」を深く考えることは少ないかもしれません。けれど、人と関わる仕事をしている私たちにとって、この問いは案外、日々のすぐそばにある気がしています。


理想を重ねて、現実に戸惑う。

誰かを信じていたのに、がっかりする。「あんな人だと思わなかった」と思う瞬間。それは、相手が“裏切った”のではなく、自分が勝手に“描いていた像”とのズレなのかもしれません。


信じるって、相手を自分の理想に当てはめることではなく、見えなかった一面が見えたときに「それもその人だ」と受け入れられるかどうか。その覚悟を持つことだと、最近感じています。


自分の「軸」がある人は、折れない。

信じる力って、結局は「自分がどうありたいか」にかかっているんだと思います。期待が外れたとき、相手に失望するか、自分の軸で受け止めるか。どちらを選ぶかで、関係はまるで違う未来を描きます。


もちろん、私もまだまだ未熟です。感情が波立つこともあるし、思わず距離を取りたくなる日もあります。でもそんなときこそ、「いまの自分は、何を信じているんだろう?」と立ち止まるようにしています。


仲間って、「見返り」が前提じゃない。

誰かに何かをしてあげたとき、「ありがとう」のひと言が返ってこないと、もやっとすることがありますよね。でも、それが毎回だとしたら、どこかで“見返り”を前提にしている自分に気づかされます。


本当の仲間って、「貸し借り」のない関係。助けたあとに、見返りを求めない人の背中に、一番深い“信頼”が宿っているのかもしれません。


「信じる」は、距離の取り方にも表れる。

相手とぶつかったとき、無理に近づこうとするよりも、静かに見守る勇気も、“信じる”のかたちのひとつ。受け止められないなら、いなしていい。言葉が見つからないなら、黙っていてもいい。大切なのは、自分の心に誠実であること。そうすれば、いつかまた自然と、心が通う瞬間が来るはずです。



「信じる」という言葉には、あたたかさと、そして強さがあります。誰かを信じるには、自分を整えることが先。そのプロセスこそが、人とのつながりを本物にしてくれるのだと思います。

 
 
 

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